鬱病日記 2006年1月26日

三年後

あいも変わらず暇である。今日は最近お気に入りの喫茶店に行った。
白い壁の完全分煙、デザイナーズ家具に日当たりの悪いガラス張りの席からみえるグリーン。四人がけの席に一人で陣取り、ガトーショコラにカフェラテ、柴練の「吉宗 男は度胸」を読みながら煙草を一服。
平日のこの時間、ほとんど他に客は居ない。禁煙席のほうでおばちゃんたちが騒いでいるのが薄く聞こえる。
しばらくしてお客さんが一人。ちらりと見て、また本に目を戻す。
その女性はためらわずに私の席の向かいに腰を下ろした。隣の椅子にショルダーをおろすと意外と重いのか、どさっと音がした。私は再び本から目を上げる。
年は三十過ぎ、黒いかっちりしたショルダーに似合わないラフな服装。上は白黒のボーダーニット、下は細身の赤のタータンチェックのパンツ。顔は、私だ。ちょっと老けて髪がロングになっているけれど、自分の顔を見間違えるわけもない。驚く私を制するように軽く手を上げて、もう一人の私が笑う。
「居ると思ってた、28歳?」
声は、テープレコーダーにとった時の自分の声。やっぱり、私だ。
「鬱病で休職中。暇をもてあまして、片っ端からビデオを見て本を読んで絵を描いてる」
訳が分からない、けれどずばり言い当てられてとりあえず頷く。
「私は31歳、三年前そこに座って本を読んでた」
「つまり、未来の私ってこと…ですか?」
年上だし初対面――といっていいのかどうか、毎日鏡であっている人物と同じ人に見えるけど――だから、とりあえず敬語。
「三年たてば分かるんじゃない」
そういって彼女――私――は私のカフェラテを一口。

「もう自殺はしないの?」
私は彼女に問いかける。
「教えてやらねーよ。それはアンタ次第」
性格と口の悪さは相変わらずみたいだ。とはいえ未来の自分に会えるなんてめったにないことだ。色々と聞きたいことが頭の中を駆け巡る。
みんなは元気?
鬱病は治ったの?
何で生きてられるの?

「私が教えてやるのはただ一つ。三年後もアンタは生きてるってこと」
私はカフェラテを一口。
彼女はカバンからかわったパッケージの煙草を取り出すと火をつけた。
「禁煙は不成功かー」
「あったりまえじゃん、禁煙なんて出来るわけねーだろ。あ、でも酒はやめたョ酒は」
「酒は今でもやめてるよ」
「あれ?そーだっけ。あーそうそう。あの精神科医のクセに自分が精神病なんじゃねぇの?ッてかんじのあいつに禁酒させられてるんだっけ」
「そうだよ。アル中で昼間っから酒飲んでODして死にかけたの覚えてないの?」
「覚えてる覚えてる!そんなこともあったっけ〜あん時は血ィ吐いたりしてね、マジ死ぬかと思ったわ」
笑いながら口の端から紫煙を吐き出す。そして煙草をくわえたまま左手を差し出す。左手の中指には私と同じ指輪がはまっていた。今の恋人、付き合ってそろそろ五年になるけれど、その彼とおそろいの指輪。チタンなのでサイズ直しが出来ず、最初は右手の薬指だったのがだんだん痩せてしまって左手の中指サイズになってしまった指輪。
彼女は左手のニットの手首の部分をめくって私に見せた。そこには、何本ものうっすらと赤い筋。
私も自分の左手首を彼女に見せた。傷だらけの手首がテーブルの上で交叉する。
「ま、そう簡単には死ねないっつーことよ」
そういって彼女は笑いながら立ち上がる。
「じゃあね、ごちそーさま」
そして背中を向けて出て行った。

不意に笑いが込み上げてきた。
そう簡単には死ねない、か。そんなこと知ってるよ、と思っても笑いは後から後から込み上げてきてなかなかおさまらなかった。気が付いたら涙まで出ていた。
ウェイターが怪訝な顔をしてこちらを見ていた。

三年後も、アンタは生きてるってこと。生きて呼吸して考え続けてるってこと。
「三年、か。めんどくせェなァ」
そう呟いてカフェラテを飲もうと思ったらカップは空だった。私の残していった煙草の吸殻と、空になったカップ。
時間は午後三時。三年後の一月二十六日午後三時。私は再びここに来るのだろうか?